Update (2003/09/01) 「コンピュータとの出会い」、ではなくて、「プログラミングとの出会い」となっているところが味噌です。
昭和40年代前半、私が大学生だった頃のことです。当時、大学でもコンピュータは まだ珍しく、汎用コンピュータを導入して学内に「計算センター」を作ろうと言うような話が持ち上がっていました。当時、コンピュータ業界では、IBMのシステム/360という最初の汎用コンピュータが大成功を収めつつあり、その後の汎用コンピュータ隆盛の基礎を築きつつありました。汎用コンピュータのIBM、オンラインシステムに優れたUNIVACなど米国のコンピュータ・メーカーが世界を席巻していました。国産コンピュータも、国策的にグループ化された大手の通信・電機・電器メーカーなどにより競って開発されていました。そういう時代ですから、計算センターに導入する機種は「外国製か国産か」ということが非常に注目されていました。
「計算センター」がそれほど学内で注目されていましたので、あちこちで「プログラミング講座」というものが企画され実施されていました。珍しもの好きな私も、その一つの「プログラミング講座」に参加してみました。ちなみに、私は法学部の学生で、コンピュータとは何の縁も無い生活をしておりました。しかし、この「プログラミング講座」というもの、今考えてみれば妙なもので、コンピュータそのものには触ることはおろか見ることさえないという、純粋に紙と鉛筆と思考上の「プログラミング講座」なのです。
その講座は、次のようなものでした。FORTRANというプログラミング言語の講座で、まず、FORTRAN言語の文法とプログラミングの基礎を教わります。次に演習用のプログラムのテーマが与えられ、FORTRAN専用の80桁のコーディング用紙にFORTRANのプログラム・ソースを書き込み、提出します。すると、次回の講座では、提出したプログラムをコンパイルし実行した結果が、連続汎用プリンター用紙にプリントされて返ってくる、というものでした。専用端末などはまだ希少な時代です。コーディング用紙は、パンチャーによってキーパンチされ、1行が80カラムのカードになり、そのカードを読み込んで、コンパイル、実行された結果がプリントされるということだったのでしょう。
最初に一つだけ、馴染めなかった記述は、=(等号)の使い方でした。
でも、これがルールだと思ってしまえば、それなりに納得できて、後はすいすいと進んで、なんとなくFORTRANプログラミングが肌に馴染んでしまった感じでした。 |